今回は大阪・梅田から各方向へ路線を伸ばしている阪急電車のうち、京都河原町~大阪梅田間を結ぶ京都線について解説します。

阪急京都線とは?運行区間・停車駅は?

阪急京都線の電車、8300系8300F
阪急京都線の電車

阪急京都線は大阪梅田と京都河原町を結ぶ路線で、正式には「阪急京都本線」と言います。

大阪梅田を起点とする神戸線・宝塚線に並ぶ阪急電車の主要3路線のひとつでありますが、梅田~十三間は歴史的経緯から宝塚線の複々線という扱いです。

そのため正式には十三~京都河原町間の路線となります。

大阪梅田~十三間が宝塚線な理由に関してはのちほど解説します。

多くの区間にわたってJR京都線(東海道本線)、また淀川をはさんで京阪電車と近接していることから、JR・阪急電車・京阪電車の3社間での競合が激しくなっています。

JR京都線を走る新快速列車、225系I11編成
ライバルとなるJR京都線の新快速列車

阪急京都線の停車駅

〇:停車 レ:通過

駅名よみかた快速特急A快速特急特急通勤特急快速急行快速準急普通接続路線
大阪梅田おおさかうめだ阪神電車
Osaka Metro御堂筋線(梅田駅)
Osaka Metro四つ橋線(西梅田駅)
Osaka Metro谷町線(東梅田駅)
JR京都線・JR神戸線・JR宝塚線・JR環状線(大阪駅)
JR東西線(北新地駅)
十三じゅうそう
(運転停車)
神戸線
宝塚線
南方みなみかたOsaka Metro御堂筋線(西中島南方駅)
崇禅寺そうぜんじ
淡路あわじ千里線
(北千里方面:一部直通列車あり)
(天神橋筋六丁目・Osaka Metro堺筋線方面)
JRおおさか東線(JR淡路駅)
上新庄かみしんじょう
相川あいかわ
正雀しょうじゃく
摂津市せっつし
南茨木みなみいばらき大阪モノレール
茨木市いばらきし
総持寺そうじじ
富田とんだ
高槻市たかつきし
上牧かんまき
水無瀬みなせ
大山崎おおやまざき
西山天王山にしやまてんのうざん
長岡天神ながおかてんじん
西向日にしむこう
東向日ひがしむこう
洛西口らくさいぐち
かつら嵐山線
西京極にしきょうごく
西院さいいん嵐電(西院駅:さいえき)
大宮おおみや嵐電(四条大宮駅)
烏丸からすま京都市営地下鉄烏丸線(四条駅)
京都河原町きょうとかわらまち京阪電車(祇園四条駅)

阪急京都線の歴史 元々は京阪電車の路線だった?

そんな阪急京都線ですが、もともとは阪急が建設した路線ではなく、京阪電車の路線だったのです。

どういうことなのでしょうか?

京阪電車8000系
京阪電車

まずは、母体となった新京阪鉄道の歴史についてを解説します。

新京阪鉄道は、かつて京都府・大阪府に路線を保有していた鉄道会社です。

現在の阪急京都線系統にあたる鉄道路線を建設し、京阪系の会社として、淀川右岸における新線路の敷設に寄与しました。

大正中期以降、大阪~神戸間は阪急電車の神戸線と阪神電車が、激しい乗客獲得競争を繰り広げられていました。

阪神急行電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が、大阪~神戸間の新線の免許を申請した時から、この状況を見ていた京阪電気鉄道は、自社の保有する京阪線に関する競合路線が出現し、利権が損なわれる事態へ発展することに危機感を感じ始めました。

またこの頃、京阪間の淀川右岸に高規格新線を敷設する計画が、複数の企業から出てきており、京阪も自社線を守る目的として、地方鉄道法に基づく同様の路線免許出願を行い、新京阪鉄道が1922年に創立されました。

ただ歴史は数年で終わっています。

1928年に天神橋~西院間を開業させ、その後1930年に新京阪鉄道は京阪電気鉄道に吸収合併されました。

合併の理由ですが、当時は「昭和恐慌」の影響もあり、新京阪のみならず、本体の京阪も各方面への積極的な進出があだとなって多額の負債を抱えていました。

そのため、両社を統合し経営再建を図る目的がありました。

戦時体制で阪急電車と京阪電車が合併

京阪電気鉄道は1942年、阪神急行電鉄と合併することになります。

京阪電気鉄道の合併は自発的な意志によるものではなく、戦時下における輸送力増強のための施策として、1942年に阪神急行電鉄に対して、国が強制的に勧奨しました。

この勧奨は1938年に公布された、陸上交通事業調整法に裏付けられているだけに、拒否しにくいものでした。

かくして、阪神急行電鉄と京阪電気鉄道は対等に合併し、「京阪神急行電鉄」となり、京阪電気鉄道は解散することになりました。

ただ、国の法律によって強制的に合併させられていた会社でしたので、1949年の終戦後それぞれ分離独立し、いわば戦前の経営状態に戻っていきました。

ただ完全に戦前に戻ったわけではありませんでした。

1949年に京阪電気鉄道が京阪神急行電鉄から分離した際、元新京阪鉄道の路線は京阪神急行電鉄に残ったのです。

こうして新京阪線各路線は、京阪神急行電鉄、のちの阪急電鉄の京都本線・千里線・嵐山線となりました。

新京阪線が京阪電車の手元に残らず、阪急電車となった経緯

阪急京都線を走る電車、1300系1300F
戦後新京阪線の路線は阪急の路線になった

ところでなぜ、新京阪線は戦後京阪電車に残らず、阪急電車の路線となってしまったのでしょうか。

京阪電気鉄道の分離に関して、旧阪急系役員と旧京阪系役員との間には、深刻な対立があったとされています。

旧京阪側は合併前の姿に返して発足することを主張したのに対し、旧阪急側は旧阪急各線にかつて新京阪鉄道にあった各線を加えたうえで分割に応じようと主張しました。

しかし、旧京阪系役員の主張は通りませんでした。

考えられる原因としては、京阪分離前の1945年から実は、新京阪線の阪急梅田乗り入れが開始されており、これが新京阪線系統の路線が阪急に残存する一要因となり、新京阪線が阪急京都線となってしまった背景となってしまったのではないかと考えられます。

こうして旧阪急側の利益のために、新京阪線は他社の手に委ねることとなってしまいました。

そのほか役員に関しても阪急側の役員が多かったらしく、それも影響を与えたものと考えられます。

結果、旧京阪側としては阪急に新京阪線を奪われてしまったと捉えられてもおかしくないような、耐えられない結果となってしまったのだと考えます。

やはり、強制合併は協議分割でも大きな歪みを残したと思われます。

阪急電車になってからの阪急京都線の歩み

最後に、合併以後の阪急京都線の歩みについて大きく3つにわけて解説します。

京都線の梅田乗り入れ

宝塚本線区間の中津駅付近を通過する阪急京都線の電車
宝塚本線区間の中津駅付近を通過する阪急京都線の電車

1つ目、戦時合併されていた時代の京阪神急行電鉄では、京都からの電車が宝塚線に乗り入れ、梅田まで直通運転が行われたといいます。

京都線が誕生した後、1959年には宝塚線が複々線化、用地不足などを理由に、京都線用の複線に中津駅のホームは建設されませんでした。

一方、天神橋~淡路間は京都線から外され、十三駅までが京都線となりました。

こうして京都方面から梅田駅に至るルートが、メインに切り替わりました。

当時、宝塚線の一部の電車が京都線用の複線を使っていましたが、列車本数が増加したこともあり、京都線と宝塚線は独立して運行されるようになりました。

以上のような経緯もあり、現在も京都線の戸籍上の起点は十三駅となっています。

この経緯もあり、現在でも大阪梅田~十三間は、「宝塚本線へ乗り入れる」という解釈になっています。

阪急新幹線

大山崎駅に入線する阪急京都線の電車、8300系8300F
大山崎駅に入線する阪急電車 右側のホームの壁を挟んで新幹線が通っている

2つ目は1964年、まだ東海道新幹線が完成する直前の話です。

阪急沿線の人々が「阪急新幹線」と少し誇らしげに語る時代がありました。

阪急には東海道新幹線と並走する区間があり、それは大山崎から上牧あたりの区間です。

東海道新幹線の建設に合わせ、阪急も線路を高架にすることにしました。

その工事期間中限定で、開業直前だった新幹線の線路を借りて阪急電車が走ったのです。

新幹線の線路なのに、こだま号やひかり号より先に、阪急電車がその線路を走るというのは非常に興味深い歴史です。

地下鉄堺筋線との相互直通運転

阪急京都線を走る地下鉄堺筋線の電車(Osaka Metro66系)
阪急京都線を走る地下鉄堺筋線の電車

3つ目は、地下鉄堺筋線との相互直通運転についてです。

地下鉄堺筋線は1969年の開通当初から、阪急電車と相互直通運転をしています。

開業にあたっては南海電車と相互乗り入れを行う案もありましたが、阪急と南海では線路幅が違うため、相互直通することが技術的に困難でした。

南海電車の相次ぐ事故も影響していたようですが、これらの要因によって、当時、大阪万博の輸送にも貢献できることから、最終的に阪急電車と直通することとなりました。

新今宮駅に入線する南海高野線の電車、8300系8715F
堺筋線の直通先には当初南海電車も挙がっていた

まとめ

ここまで解説したことを簡単にまとめます。

  • 阪急京都線の概要について
  • 阪急京都線はもともと阪急電車ではなく京阪電車の路線だったことについて

以上のことがわかったのではないかと思います。

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