東京を走る路線は広範囲な直通先があることもあってか、一見謎に思える行き先がたくさんあります。

それはJR線だけでなく、郊外の私鉄やJR線と直通運転する、地下鉄が関係する路線でも同様です。

ところで都営三田線の終点は西高島平という駅であり、この駅を終点とする列車がかなり多いのですが、どうしてこの駅が終点なのでしょうか?

今回の動画では、都営三田線が西高島平を終点とする理由について解説します。

都営三田線の概要

都営三田線は目黒駅と西高島平駅の間、全長26.5kmを結ぶ地下鉄路線で、途中三田、日比谷、大手町、神保町、巣鴨などを経由します。

沿線はオフィス街のある都心部の日比谷や大手町などのほか、三田には慶應義塾大学三田キャンパス、御成門には東京タワー、神保町には神田古書店街、水道橋には東京ドーム、白山には東洋大学白山キャンパス、巣鴨には「とげぬき地蔵尊」として親しまれている高岩寺など、沿線には多数の有名大学やレジャースポット、観光地などがあります。

また三田線は目黒〜白金高輪間で東京メトロ南北線と線路を共用し、南北線やその相互直通運転先である埼玉高速鉄道線とともに目黒駅を介して東急目黒線日吉駅経由で東急新横浜線新横浜駅まで直通運転を行い、そこからさらに一部は相鉄線海老名・湘南台方面へも直通運転を行っています。(東急線直通列車は一部目黒線内の武蔵小杉・日吉止まりもあり 奥沢行きは南北線からの電車のみ設定)

そのため三田線から洗足をはじめとした目黒区、品川区などの高級住宅地をはじめ、近年高層マンションの建設が相次ぐなどして利用者が飛躍的に増えた武蔵小杉、東海道新幹線との乗換駅である新横浜、また慶応義塾大学のキャンパスが付近にある日吉(日吉キャンパス)や湘南台(湘南藤沢キャンパス,SFC)などへ、三田線から1本でアクセスが可能になっています。

三田線の終点、西高島平駅とは?

さてそんな三田線の終点は、西高島平という場所です。

あまり聞き慣れない地名でありどういう場所なのか、そしてなぜここが終点なのか気になる方も多いと思います。

三田線が西高島平駅を終点とする理由は、三田線の歴史を紐解くと分かるのですが先に西高島平駅とはどんな駅なのか解説します。

西高島平駅は東京都板橋区にある駅で、板橋区と言っても埼玉県との県境に近い位置にあります。

利用者は乗降人数ベースで1日1.5万人に満たない程度であり、ここまで来る列車・西高島平駅ともに比較的閑散とした印象が強い駅です。

西高島平駅の周辺は高島平団地をはじめとする東京都板橋区や、埼玉県和光市・戸田市の住宅地がメインであり、駅利用者勢力もこれらの市域となります。

一方で駅を出て大通りに出ると、真っ先に目立つのは巨大な幹線道路や高速道路です。

国道17号新大宮バイパス、首都高速5号池袋線が三田線を横切る形で通っている他、三田線西台駅付近まで並行する形で高島通りが通っています。

道路以外では駅の北側に板橋トラックターミナルというトラックターミナルや運送会社の支店のほか、果物や植物などを取り扱う板橋市場、東京団地倉庫などといった工業地帯があります。

また北西側には東京都水道局三園浄水場があります。

御園浄水場は荒川を流れている水を埼玉県さいたま市・志木市にある秋ヶ瀬取水堰から取水して、上水道と工業用水を作る浄水場施設です。

三園浄水場で浄水された水は橋区をはじめ、北区、荒川区など23区北部を中心とした地域で給水されます。

このように西高島平駅周辺の多くの地域は、物流拠点・住宅地・工業地帯となっており特に物流拠点として盛んな街であるのです。

三田線はなぜ西高島平駅が終点になった?

そんな三田線が西高島平駅を終点とする理由ですが、三田線の歴史を紐解くと分かると先程紹介しました。

それではここから、三田線の歴史を紐解いて西高島平駅が終点となった理由を紹介します。

三田線は1957年の都市交通審議会答申第1号で示された、都市計画第5号線の支線が元となる路線です。

都市計画第5号線本線が中野~東陽町間を高田馬場、新宿区戸塚町、飯田橋、大手町、茅場町、門前仲町を経由して結ぶルートであり、支線は途中の大手町より分岐して水道橋、春日、白山、巣鴨、板橋を経由して下板橋に至るルートとして提示されました。

そして1962年に示された都市交通審議会答申第6号では、後者のルートが都市計画6号線として分離されたのです。

なお都市計画第5号線の本線は一部ルートこそ変更されていますが、1964年から1969年にかけて開業し、現在の東京メトロ東西線となっています。

さてこの時都市計画6号線示されたルートは、大田区西馬込と板橋区上板橋・志村付近を結ぶ路線として計画され、途中経路は五反田、泉岳寺、三田、日比谷、大手町、水道橋、春日、巣鴨、板橋区大和町を想定していました。

このうち西馬込~泉岳寺間と西馬込駅の先にある車庫については、浅草線と共用する計画とされており、線路幅も浅草線が採用している1435mmの京急などと同じ線路幅とされる予定でした。

ところがこの年の10月、三田線に他の私鉄との相互直通運転計画が浮上しました。

その私鉄とは神奈川県方面に路線網を持っている東京急行電鉄、そして埼玉県方面に路線網を持つ東武鉄道の2社です。

東急側は泉岳寺から五反田を経由し桐ヶ谷までを結ぶ東急泉岳寺線を建設し、桐ヶ谷から池上線を経由して旗の台・二子玉川園経由で現在の大井町線を経由しながら田園都市線の鷺沼・長津田方面と結ぶ計画。
東武側は上板橋駅で東上線と接続して埼玉県志木・川越市方面と直通運転する計画となっていました。

ところが、東武側で問題が発生します。

東武から「板橋区大和町~上板橋間は運転需要の対応が困難であるため、上板橋駅に6号線乗り入れのための改良工事をする余裕がない。」との申し入れがあったことを受けて、1964年に大和町〜上板橋間の建設を中止し、東武は現在の和光市駅から分岐する形で、東上線の支線を建設することとなりました。

これにより三田線は線路幅1435mmの線路ではなく、JRや東急、東武などが採用している1067mmの線路幅で建設されることとなりました。

またこの時東武が採用しているものと同じ車両寸法や保安装置とする「6号線直通車両規格」を制定しました。

そのため線路幅だけでなく18m級3扉車体を基本とする浅草線に対し、三田線は20m級4扉車体を基本とすることになり、車両の規格に関しても浅草線と完全に別となりました。

ところが三田線の建設が始まった1965年、東急が三田線との直通運転計画を中止する意向を示しました。

なぜ中止にしたのかですが、三田線は志村方面から南下する形で建設が始まっていたことが原因です。

実際に三田線は最初の開業区間である北側の高島平~巣鴨間が1968年に開業していますが、南側の三田~日比谷間は1973年に開業しています。

それによって東急池上線の近くに達するまでには相当な時間がかかる見込みとなってしまったため、東急は三田線との直通を断ったのです

その後東急田園都市線は直通運転先を三田線から銀座線に変更。

のちに銀座線のバイパスとして建設されることになった半蔵門線に変更することとなり、最終的に半蔵門線と直通運転を行っています。

東急池上線・田園都市線との直通運転が白紙になったことで三田駅から先のルートが決まらないまま、東京都交通局は当面の間三田線を高島平~三田間で運行することとし、先述の通り1968年~1973年までに三田線を開業させます。

それと並行しながら東武東上線との直通運転を行う準備も進めており、開業当時に導入された三田線の初代車両6000形では東上線直通を想定した設備が一部で見られました。

一方でこの頃東武東上線の支線改め東武高島平線について、東武グループ社内で議論が起こりました。

なぜ議論が巻き起こったのかというと、高島平線が東上線の都心側ターミナル駅で東武百貨店などがある池袋を経由しなかったことが最大の理由です。

東武が池袋を経由することにこだわった理由は池袋駅での山手線など国電への乗り換え改善や、戦後の闇市からの再開発として東武が数十億円もの投資をしたからです。

そしてこの6号線ルートでは都心方面まで大きく迂回する形となってしまうため、難色を示すようになりました。

ちょうどその頃現在の東京メトロ有楽町線が建設されることになり東武もこれに目をつけたのか直通運転先を三田線よりも近いルートで都心へと向かうことができ、なおかつ池袋も経由する有楽町線へと変更することになったのです。

もちろん都営三田線を運営する東京都交通局は東急・東武両社に抗議を行ったものの、結局は両者の意向に押し切られてしまいました。

これによって都営6号線改め都営三田線はしばらくの間、高島平~三田間を結ぶ孤立した地下鉄路線となったのです。


そんな中1972年、高島平駅付近に高島平団地という巨大な団地が建設されました。
もちろんこの団地の住民は三田線を使って都心へと向かうこととなります。

ところが東武高島平線が通るはずだった高島平団地の西側には、東武高島平線の駅ができる前提で家を買った人がたくさんいました。

しかし東武高島平線の計画が白紙となってしまったことで、この地域の駅が開業しないこととなってしまったのです。

これでは当然住民は納得がいかず、これらの状況を鑑みて東武鉄道から一部鉄道敷設免許を譲り受けたうえで、1976年に高島平~西高島平間約1.5kmを延伸させ、新高島平駅、西高島平駅が設けられました。

また東武東上線との直通計画廃止後も西高島平駅のすぐ近くに、埼玉県の和光市、朝霞市、戸田市などの自治体が隣接していることもあってか、1972年の都市交通審議会答申第15号では三田線を埼玉県戸田・浦和・大宮方面へ延伸させる構想が示されていました。

しかしこの延伸は結局実現への目処が立たず、1985年に示された運輸政策審議会答申第7号で大宮方面への延伸計画は消えてしまいました。

その代わり三田線は三田から先目黒方面へと延伸し、現在の南北線と共に東急目蒲線と直通運転する案が出されます。

こちらは2000年の三田〜白金高輪間および南北線と共用となる白金高輪~目黒間の延伸の実現と、東急目蒲線の目黒〜多摩川間と多摩川〜武蔵小杉間の東横線複々線区間を合わせた、東急目黒線との直通運転が始まったことで実現しました。

そしてこの目黒線は武蔵小杉から先、2008年6月に日吉まで延伸。

その後2023年3月に東急新横浜線として目黒線延伸部と東横線の別線を兼ねる形で新横浜まで路線は伸び、そこから更に相鉄線方面へと線路が繋がりました。

まとめ

・ かつて東武東上線との直通運転計画があり、その名残の1つであることが最大の理由であること

・ 当初三田線は東急池上線・田園都市線、東武東上線と相互直通運転を行う計画だったこと

・ そのうち東武が直通をやめた理由は、三田線と接続路線として計画された高島平線が池袋を通らないことが最大の理由であり、東上線は最終的に池袋を経由する有楽町線と直通運転を行うことになったこと

・ その後も埼玉県方面への延伸計画があったが、実現には至っていないため、西高島平が今も終点のままとなっていること

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